第一章 二つ茶屋村、村名の由来

応仁元年の戦乱以降、摂津方面は戦国時代の禍中にあり安んじて農業、漁業に従う住民はあらざりき。
足利時代の武威は衰え、天文、永禄に至るも権家の士、太夫等、或いは世の動静を観て暫く身を農圃の間に寄するもの続出せり。
かかる時、八田部郡中宮村より来ると称し三城、高木の両氏始めて二つ茶屋村に茶屋を開業せり。
二つ茶屋村は現在の神戸市内栄町4丁目海岸通りを含む付近にして其の東を神戸村とし、西を走水村と称する一方里内外の村落たり。
戦場の落武者秘かに同士を糾合するの目的を以ってこれを営みしならんと、 即ち各所より飢渇の武士漂着する毎に飯食を供するを以って常とせりと言う。
当時(永禄年間)の内に同村に参集せるもの前記両氏の他に法西、浄薫、輿三兵衛、弥右衛門の各氏にして、その内いずれが 茶屋たりしかは不明なるも嘉永年間にかけての文献によれば、茶屋の治右衛門(即ち茶治と称し浄薫の子孫)、西隣に利右衛門(茶利) なる家あり。この二軒が二つ茶屋村の村名発祥に因むと推測される。
永禄以降十数年の後、同村内に字市場なる地名を生ずこれ近在の農夫が日々の野菜青物を持ち来り市をなしたる所なりと言う。
かくて永禄を過ぐる十四、五年の間に各所より移住し来るもの続出し、次第に村落の形態を作るに至れり。
永禄年中、天亀年中には、法西次男、藤右衛門、吉右衛門、宗右衛門、久兵衛、新助、六右衛門、源右衛門、法円、善右衛門、治郎太夫 四五兵衛以上十八家が同村の開発の基礎を固めたり。
大阪城時代、増田右衛門の知行所管下にあり、次いで戸田右衛門領地となり徳川時代に入るや戦雲全く収まりてここに移住相継ぎ久しく 青山所領として繁栄を来せしものならんと思惟す。



第二章 宇治川尻の埋め立て

寛永年間のこと、村内益々発展し殊に廻船業を営むもの頻り、 延宝七年四月領主青山大膳亮の調書によれば、神戸村に五人、二つ茶屋村に十人の業者を算するに及ぶと言ふ。
浄薫の子孫 三代目茶屋治右衛門は卓抜異彩あり。よく公共に心を用い 進んで幾多の公共事業に尽くす。その最も著明なるは宇治川の川尻埋立工事、即ちこれなりとす。
当時宇治川より流出せる土砂は河口に山積し、しばしば決壊、 氾濫の原因を作りしかば、この土砂を以って川尻東方を埋め立てせんと決意し、努力遂にこれを敢行、漂望たる美田に化せしむ。
これ現、弁天浜の基礎即ちこれなり。領主青山氏、深くその徳行を頌し、その壮挙に因みて爾今名字帯刀を許さるに至れり。



第三章 瘤治の活躍

享保のころ二つ茶屋村内に於ける廻船業者は四十六軒、四百石、乃至、八百五十石船百十余艘に及びその内最も栄えたる廻船業者は 浄薫の子孫 五代目茶屋治右衛門なり。
俗に千石船と称さるるもの四十五艘を有し、殊に常丸、虎丸の如きは、遠く松前北海道に遠洋し、 米穀、肥料を積出し彼地の物産を輸入して巨利を持せり。
俗に「瘤治」と称され奇骨隆々、その巨肘、まことに衆人を畏敬せしめしと言ふ。
当時使用せし船印は後年醤油醸造業を開始せし時に用いられし久丁これなりとす。



第四章 酒造業の発展

瘤治の二代あと七代目治右衛門はボッコウ村の名門竹中嘉荘家より百架の荷、槍持参の女婿にしてその声望もことに冠絶せる ものありと言ふ。
七代目を名乗るや実家の業を移して酒造業を開始なす。
これ時の趨勢の然らしむるものにして、西摂大観によれば戸数千戸、人口数千を越える盛況を呈し、気候、風土、水質の適当なるを以って 陸続酒造を営むるもの併出するの状態にありき。
「問屋株覚帳」によれば問屋株の所有者四軒、酒屋株を有するもの十二軒に達し勿論、公許にあらざれどもその傾向益々増加し、 漕運業と共に村内の重要なる生業と化しつつあり。
「酒造御触書及び諸願写」によれば海岸一面酒造庫櫛比の盛況を呈せりと言ふ。



第五章 千両箱はいずこ

八代目治右衛門は折りから宇内を席捲しつつありし株相場に染手し幾許もなくして凋落の悲運に直面せり。
千両箱は相継いで馬の背に架せられ大阪へと積出す惨状となる。
続いて九代目の代に至るや全く絶滅に瀕し家具、什器も殆ど大阪に持ち出され荒寥たる状況と化したりき。



第六章 神戸開港

十代目治右衛門はこの悲況を挽回せんことを誓いて入りし人にして北野に於ける名門、前田吉右衛門の倅にして幼時を喜助と称し 実直精励寡言にして勤労を好む性行たり。
常識的にして奇に逸せず、而かも意志強固にしてひたすら家運の再興に専念する外他意なかりき。
早くより醤油醸造を企画し先々代以降殆ど省みざりし酒造桶を転用し、孜々営々微を積み巨利を避けて実意丁寧を旨とし一意斯業に邁進せり。
時宛も幕末の風雲急にして神戸開港の勅令は慶応三年五月を以って下され柴田日向守剛中、兵庫奉行として任ずるに至る。
ここに於いて弗相場の活況は全神戸を圧倒し相次いで当地を目差すもの続出せり。
従いて斯業益々盛況を来し、十代目晩年に至り、始めて子孫恒久の基礎定まりて除に自適の境涯に達する事を得たり。